「可哀そうな人」のラベルを貼らない



こんにちは、

精神科医の諸藤えみりです。


GW明け初日、お疲れ様でした。

今日は

仕事でのわたしの話を一つ。



「可哀そうな人は誰もいない。」

というお話です。




わたしが精神科で外来をしていると、

家庭環境や金銭面で

困っている方が

来られるときがあります。



けれどもわたしは

彼らのことを

可哀そうだとは思いません。


なぜなら、

「可哀そう」は

わたしのジャッジだからです。





わたしは昔、

「あの人可哀そう。」

と、よく思っていました。


精神科外来には

どうしようもない環境に

いらっしゃる方がいます。



「可哀想な人を

何とかしてあげたい。」

「救ってあげたい。」

と、思っていました。



話を聞き、

使えるサービスがないか調べ、

奔走する。




しかし

「可哀そう。」

に基づく行動は

上手くいきませんでした。



良くなるよう

解決案を提しますが、

相手は首を縦に振らない。

可哀そうな状況から抜け出さない。


わたしから

「これだけしてあげているのに。」

という気持ちも湧いてきました。




可哀そうな人が目の前に現れる。

でも、

何ともしてあげれない。


自分の無力さ、

救ってあげられない

罪悪感が出てきて

わたしを責めます。




なぜ可哀そうだと思うのか。


・「わたしが」こうだったら嫌だな。

・わたしよりも大変な状況にいる。

と、自分の価値観で

相手をジャッジしているからです。



「自分だったら。」と、

わたしと相手を同一視している。




相手は自分のことを

可哀想だと

思っていないかもしれなません。


もしかしたら

可哀そうに見える今の状況を

気に入っているかもしれません。




わたしと相手を

分けなければいけません。


「この人は可哀そうな人。」

と、勝手にラベルを貼るのは

失礼だと反省しました。



わたしが相手を

「可哀そう。」

だと思って見るから、

相手がどんどん可哀そうになります。





それ以来、

わたしの価値観で

「可哀想」

のラベルを貼るのはやめました。



「わたしが救わなければいけない。」

の思い込みもやめました。




「救わなければいけない。」

って、一体わたしは何様?!

って話ですよね。


自分を救えるのは

自分しかいないのに。





目の前の人を

「可哀そうな人。」

として見ない。


「この人なら乗り越えられる。」

と、信じる。



目の前の人とわたしを分けることで、

診察が上手くいくように

なりました。




「可哀そう。」

のラベル張り、

やめてみませんか?





精神科医 諸藤(モロフジ)えみりの心のレッスン

精神科医のわたしが日々の思ったこと、感じたことを書いています。

0コメント

  • 1000 / 1000